G5244 高ぶる

 正しくは、「輝きを超えた」。神が命じたことを超えようと試みること。すなわち、神が与えた信仰を超えた方へ行くこと。

ルカ

1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、

1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。

 これは、たましいの歌であり、霊の歌です。マリヤは、主がたましいと霊の活動に対して応えられたことに関して、歌っています。

1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。

 彼女は、主が偉大な方であることを覚えて、自分を卑しいはしためと言い表しました。彼女は、幸いなものと言われるのです。この幸いは、神の働きが実現したことを意味し、それを楽しむことの幸いを意味しています。ですから、人間的な幸いということではありません。

1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、

1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。

 あわれみは、契約に対する忠誠です。それが主を恐れる者に実現するのです。それがマリアに実現したのです。ちなみに旧約聖書では、同じことを意味する語は、ほとんど「恵み」と訳されています。

1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。

1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。

 高ぶる者は、主が与える信仰を超えていく者のことです。そのような者は、追い散らされます。

 一方で、低い者すなわち主の言葉を受け入れ従う者は、高く引き上げられます。

1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。

 権力者と低い者、飢えた者と富む者が対比されていますが、根本的には、神の言葉に従うかそうでないかの違いです。

1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。

1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」

 そのあわれみすなわち契約に対する忠誠は、イスラエルに対するものです。マリアは、自分自身に実現した主の契約に対する忠誠を楽しんでいましたが、それがイスラエルに対するものであることを覚えたのです。

ローマ

1:30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、

テモテ第二

3:2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。

ヤコブ

4:5 それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。

4:6 神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

4:7 ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

 謙りは、御霊に従う謙りであることが分かります。御霊に従う者に、さらに豊かな恵みを与えられます。それはまた、七節から、神に従うことであることが分かります。

 引用聖に句は、神は高ぶる者に敵対されます。高ぶるとは、神が分け与えた信仰を超えていくことです。謙るとは、霊において謙る人のことで神との関係です。その謙る人は、神から恵みを受けます。恵みは、神様が好意によって備えたもので、神は、それを御言葉によって示します。それを信仰によって受け入れ、従うことで自分のものになります。ですから、この謙るということは、神の言葉を受け入れ従うことであることが分かります。

ペテロ第一

5:5 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

 これは、対人関係における謙りをすすめる言葉です。ペテロは、謙りの本質的なことを御言葉の引用によって示し、それは、神の前に謙ることであり、人間関係における謙りは、その現れであることを示しました。

 引用聖句には、神は高ぶる者に敵対されます。高ぶるとは、神が分け与えた信仰を超えていくことです。謙るとは、霊において謙る人のことで神との関係です。その謙る人は、神から恵みを受けます。恵みは、神様が好意によって備えたもので、神は、それを御言葉によって示します。それを信仰によって受け入れ、従うことで自分のものになります。ですから、この謙るということは、神の言葉を受け入れ従うことであることが分かります。